本日は日本の大学を卒業後に地銀でキャリアをスタートし、現在は世界最大級のオンライン旅行代理店Expedia Group本社にて、グローバルマーケティング部署メディアチームにてファイナンスを担当されている村谷明子さんにインタビューをしてきました!
最初の地銀を退職する時点では、英語を使用した経験が全く無かった村谷さん。社会人から英語を学び始め、現在はアメリカの大手企業で働くまでに至った村谷さんの苦労の乗り越え方、キャリア観をご紹介します。
英語を使ったことないのに外資系企業なんて…海外勤務なんて…と諦めてしまっている読者の皆様。まだ諦めるのは早いです!
英語経験ゼロからアメリカ勤務!村谷さんプロフィール
学習院大学文学部フランス文学科を卒業し、山口銀行の東京の支店で1年間勤務。その後フランスの銀行BNPパリバ東京支店で3年間、オランダの銀行ラボバンク東京支店で5年間勤務し、外国為替関連の業務を担当。BNPパリバで出会った夫とともに日本での仕事を辞め、無職の状態でアメリカに移住。マイクロソフト本社の金融部署での契約社員、Expedia本社の金融部署を経て、現在は同社のグローバルマーケティング部署メディアチームのファイナンスを担当。
日本でのキャリア
地銀からキャリアをスタート
当時は就職氷河期で、内定を得るのがとても難しい時期でした。業界問わずに履歴書を送っていて、山口銀行から内定をいただき、東京支店で勤務し始めました。東京に住みたかったんですよね。しかし一年後、山口に転勤する必要が出てきました。東京にとどまりたかったので、転職することにしました(笑)
英語ゼロからの外資銀行時代
山口銀行時代は為替の業務を担当していましたので、そのポジションを探していたフランスの銀行BNPパリバの東京支店からオファーをいただき3年間勤務しました。ここで現在の夫と会い、結婚後に退職しました。
その後はオランダの銀行ラボバンクの東京支店で5年外国為替関係の仕事をしました。
BNPパリバ時代は30%、ラボバンク時代は50%は英語でした。同僚が日本人の場合雑談など日常会話は日本語だけれども、社内に残る文書とかメールは全て英語だし、1人でも日本語がわからない社員さんが会議に加わる場合なども全て英語でした。
それが、英語は全く身につけていなかったので、BNPパリバに入社した時は本当に困りました(笑)もう時効だと思うので言ってしまいますが、会議が英語の時はわかったふりをしていました(笑)
一番英語で困ったことと言えば、シンガポールオフィスに1人で出張に行った時ですかね…1人で全て英語環境で仕事だったので本当に大変でした。それでも当時はなんとかなりました。難しい状況でも与えられた仕事をこなして行くことで信頼を築いていきました。
日系企業、外資系企業、アメリカ現地企業どこで働いていても、ちゃんと仕事をこなしていれば、誰かが見てくれているはずです。凹んだとしても、難しい時期でも、プロフェッショナルな態度を取り続けることが重要です。
アメリカでのキャリア
無職の状態でアメリカに移住
当時はリーマンショックがあり、企業が縮小していました。夫とともに外資系企業に勤めていたため、先行き不透明だと感じていました。また、娘が3歳で、アメリカの教育を受けさせたいと考えていました。いい機会だと思い、2人とも仕事を辞めて、無職でアメリカ・シアトルに移住しました。私は婚約ビザを持っていて、グリーンカードを申請し、就職活動を行いました。
日系企業ではなく、現地企業を選ぶ
最初は仕事が見つからずに苦労しました。シアトルの日系企業では面接が進んでいましたが、せっかくアメリカで働くのだからアメリカの企業で仕事をしてみたいと思い始めました。現地企業のカジュアルさにも惹かれました。夫の会社は金曜日はビールパーティーだったり、3連休の前日はみんな会社に来ません。ビーチサンダルで入社したり(笑)ここでしかできない体験をしたいと考え、日系企業ではなく現地企業での転職活動に切り替えました。
マイクロソフト本社の契約社員に
マイクロソフトではファイナンス部署で、全世界のマイクロソフト支社の銀行口座に関わる仕事を18ヶ月間していました。例えば、ミャンマーの地元の銀行と交渉して、マイクロソフトミャンマー支社の銀行口座を開けたり。世界中の人と電話やスカイプで交渉していました。
オンライン旅行代理店Expedia本社に転職、そして社内異動
入社当初はファイナンスの部署で外国為替を扱っていました。この仕事がとても大変で…
ニューヨークの証券取引所が始まる時間と同時にオフィスにいる必要があり、朝7時には会社にいました。早いときには6時半にはいました。ここでも世界中の人々と仕事をしていました。朝はヨーロッパ、次はブラジル、メキシコ、アメリカ…帰宅しても、今度はアジア・オセアニアの取引所が開きます。オーストラリアやシンガポールだったり。帰宅後もいつコールが来るかわからない状態で、常に仕事の準備をしている必要があり、予定を入れることはできないし、気持ちは休まりませんでした。
とにかく忙しく仕事でいっぱいいっぱいになって、自分は何のために生きているのだろうと疑問を持つようになりました。自分の時間も取れないし家族との時間も取れない。これを長くは続けられないと考え、部署異動を決意し、マーケティング部署に異動しました。
マーケティングの部署へ
現在私が所属するグローバルマーケティング部署メディアチームでは、テレビ局にCMを流しています。メディアバイヤーがテレビ局と交渉し、CMのスポットを取ります。私はそのファイナンス担当で、月の予算を作成し、実際に予算通りに支払われたかどうかを確認するいとった業務を行なっています。
部署異動の選択は正解でした。今のチームは金曜日には会社に来ません。在宅勤務です。他の日でも午後4時には誰も会社にいません。マネージャーには、仕事をこなしていれば、どこで働こうが何時間働いていようが気にしないと言われました。以前の部署では失っていた、自分や家族との時間を取れるようになりました。
仕事に関する価値観の変化
そうですね。20代の頃とかは、仕事仕事!という感じだったのですが、33歳の時初めて海外で暮らし始めました。常に英語を使う生活で、ただでさえ仕事で英語を使っていて大変なのに、コーポレートラダーを登らなくてもいいと思うようになりました。生活が変化することで、仕事に求めるものも変化していきました。今は自分と家族との時間を確保できる仕事をしたいという気持ちが強いです。
まとめ
生きていく中で自分の中で大切なものが変化し、それに合わせてキャリアを歩むという生き方もあるということを学びました。村谷さんは山口銀行を一年で退職したり、アメリカに無職の状態で引越しをしたり、今まで所属してきた部署とはかなり色が違う部署に異動したりと、一見繋がっていないように見えても、自分の中の大切なものを見失わずに歩み続けた結果なのだと思いました。
「変化」は怖いですし、リスクも伴う事もありますが、変化をしないことで自分の中の大切なものを見失ってしまうことは、もっと怖いと感じました。留学先で会う方々とお話しさせていただく機会があると「変化しないことへのリスク」はものすごく大きいのだと痛感させられます。
こちらが後編です!多国籍な環境で働くことで経験する衝撃と、日本人としては悲しく悔しいお話しを村谷さんに語っていただきました。
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【執筆者情報】
佐藤伸介
千葉県に生を授かり、幼少期から高校まで宮城県で過ごしたのちに青森県の大学へ行く。北上し続けていたらいつの間にかシアトルにたどり着き、いまに至る。次の目的地はどこになるのでしょう。東北地方の観光を盛り上げたい。