アメリカでパイロットに。絶望を乗り越え夢を叶えた男【前編】

パイロットになるという幼少期からの夢を、アメリカにて叶えた前田伸二さんにインタビューをしてきました!

前田さんは壮絶な過去を経験しています。大学時代に交通事故に遭遇。命の危機に陥り、それを乗り越えたものの、右目を失明しました。日本ではパイロットなることはもちろん、働くことさえ拒否され、一度は生きる希望を失いました。

数々の試練を乗り越えアメリカにて夢を叶え、新たな目標に向けて進んでいる前田さんが若者、そしてその親御さんに伝えたいこととは?

パイロットを目指している方はもちろん、難しい、苦しい状況にある、一歩が踏み出せないと感じている方にはぜひとも読んで欲しい記事です!第1弾は、前田さんの経歴、人生について紹介していきます!

少年時代

なぜパイロットになりたいと思ったのですか?

僕の出身は北海道の十勝です。小さい頃に飛行機の中から十勝平野を眺めて、自分もこのように空を飛んでみたいと思ったのがきっかけですね。高校は山梨県の日本航空高等学校に通い、その思いはさらに強くなりました。

学生時代ー日本編ー

どのような大学時代を過ごしていましたか?

パイロットになるという夢を持ち、日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学しました。朝から晩までずっと勉強です。周りについて行くのが精一杯で、友人の家に通い、色々と教えてもらいながら必死に勉強していました。

交通事故

大学1年生の時、いつも通り友人に勉強を教えてもらうためバイクで友人宅に向かっていた時、交通事故に遭いました。この事故により命を失いかけたものの、何とか一命をとりとめました。

しかし、右目の視力を全て失いました。日本でパイロットになるという夢は絶たれました。そして何よりも社会人からの強烈な差別発言に深く絶望し自分の生きている存在を見いだせなくなり、自殺も考えました。

前田さんを救った電話

高校時代の恩師にこの事実を電話で話すと「死にたいなら死になさい。」と返され切られました。

その後、電話がかかってきて「すまんすまん、電波悪かった」ととぼける恩師。「お前が死んだらお前を心配している、愛している両親はどうなるんだ。お前が生きているだけで幸せに感じる人はいるんだ。それでも死ぬのか?」

この言葉が立ち直るきっかけを与えてくれました。

終わらない苦難

加害者からは散々に言われ、就職活動では「障害者はいらない」と入社を断られ続けました。日本で生きてはいけないなと感じるようになりました。

学生時代ーアメリカ編ー

なぜ留学したのですか?

日本では生きて行くことは難しいと感じるとともに、パイロットにはなれないが、航空産業に携わりたいと思い、同産業が盛んなアメリカに1年間の留学を決意しました。留学に行く前に父親から「納得するまで帰ってくるな。」と言われていたので、ぼくにとってはこれが片道切符でした。

留学中はどのようなことをしていたのですか?

ICC国際交流委員会主催のIBPプログラムという、1年間で英語学習とインターンシップができる留学プログラムを利用しました。英語が苦手だったので、英語を学ぶことはもちろん、航空産業の企業でインターンシップをしていました。

1年間の留学終了後の活動を教えてください。

アリゾナ州のエンブリー・リドル航空大学で航空安全危機管理修士課程に進学しました。ぼくが事故を経験したこともあり、リスクマネジメントを学びたいことに加え、航空産業は外せないと考えていました。当時の限られた情報の中で必死に探し、たどり着いたのがこの大学院でした。

大学院ではどのようなことをしていたのですか?

大学院の卒業式

共通の興味を持つ優秀な学生と勉強し、切磋琢磨していました。航空系の課程ということもあり、パイロットの免許を持っている学生がかなりいました。羨ましさ、嫉妬を感じながらも、「自分はパイロットにはなれないんだ」ということを自分自身に言い聞かせ、パイロットになりたい気持ちを押し殺していました。

転機となった教授の言葉

ある日突然、お世話になっていた教授に「シンジ、お前このあと暇か?暇だったらデート行くぞ」って言われたんですよね。何だ何だ。何かされるのか・・・と少しビクビクして教授の車に乗り、到着したのは教授の自家用航空機がある飛行場でした。教授に言われるがままついて行き、教授の自家用飛行機の助手席に乗りました。そして機体は前進して行き、地面を離れ、空を飛び始めました。

着陸後、教授にこう言われました。「まさかお前、片目が見えないからってパイロットになることを諦めてはいないだろうな?いいかシンジ。世の中には二つの不幸がある。一つ目は、やりたいことや夢があるのに、情報がないことでそれらを成し遂げられないことだ。二つ目は、やりたいことや夢があるとわかっているのに、自分でそれを押し殺していることだ。

「アメリカでは片目でも飛んでいる人はいる。こいつに電話して話を聞いてみろ。お前の挑戦はまだ始まっていない。」

そう言われて、電話番号が書いてある一枚の紙切れを受け取りました。電話をかけてみると、相手は片目を失いながら空を飛んでいるアメリカ人でした。同じ片目でもパイロットになっている人はいる。今まで自分は何をしていたんだと思うと当時に、希望が生まれました。かつて失った夢を取り戻した瞬間でした。

その後、大学院在学中にパイロットの訓練を始め、2005年に双発計器飛行付自家用操縦士免許を取得しました。そして2016年に事業用操縦士免許そして飛行教官の免許の免許を取得しました。長い期間の苦労が報われた瞬間でした。

就職

大学院を卒業後、飛行艇や航空機部品などを製造している株式会社の新明和カリフォルニアでの3年間の勤務を経て、2008年に米国大手航空機製造会社にヘッドハンドされました。

新明和工業時代

現在はどのような活動を行っているのですか?

主に3つです。一つ目は上記の航空製造会社での業務です。二つ目は、飛行教官としての活動です。航空機の操縦を教えています。三つ目は、NPOの活動です。2017年に設立したエアロジパングプロジェクトの代表を勤め、将来の航空機産業を担う若者を育成しています。

エアロジパングプロジェクトに懸ける思い

これからはどのような活動を行うのですか?

2020年に単独で世界一周飛行に挑戦します。世界一周はエアロジパングプロジェクトの活動の一つです。片目を失い、命も失いかけた障害者の自分が飛行機で世界一周を行い、青少年、障害者およびその家族に、希望、強さ、そして喜びを呼び起こす機会と経験を提供します。世界一周中、訪問する国々で講演を計画していて、現在も様々な国と調整を続けています。

世界一周って聞くと、世界一周しました!万歳!っていうのが多いですよね。これもいいと思いますが、ぼくの世界一周は異なります。ぼくは世界一周することが目的ではなくて、ぼくの世界一周を通して人々に元気、勇気を与えることが目的なんです。

成功する確率は100%ではないです。しかし確率をあげるために、機体整備は西海岸でも有名な整備士が機体整備を続けており、準備は入念に行っています。

まとめ

第1弾では前田さんの経歴を紹介しました。第2弾では世界を舞台にして航空産業で活躍してきた前田さんから、読者の皆さんへのメッセージです。難しい、苦しい状況にいる、何かに迷っている、世界目線で夢を叶えたいなど、多くの人の心に刺さる記事です!

 

【執筆者情報】

佐藤伸介

千葉県に生を授かり、幼少期から高校まで宮城県で過ごしたのちに青森県の大学へ行く。北上し続けていたらいつの間にかシアトルにたどり着き、いまに至る。次の目的地はどこになるのでしょう。東北地方の観光を盛り上げたい。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

shinnsukesatou

千葉県に生を授かり、幼少期から高校まで宮城県で過ごしたのちに青森県の大学へ行く。北上し続けていたらいつの間にかシアトルにたどり着き、いまに至る。次の目的地はどこになるのでしょう。東北地方の観光を盛り上げたい。